もう10数年は経ったであろうが定かではない。まだボケが始まったとは思わないが、この頃は自分でも賞味期限が切れたなーと思うことが多いのだ。物忘れや意欲の欠乏は如何ともしがたいので確かな記憶でないことはご勘弁いただきたい。
南の方の水族館からなじみの飼育係が訪ねてきたことが有った。事務室でコーヒーをご馳走しながらよもやま話になったのであるが、なんでも新しい水族館に建て替える計画が進行中であるとのこと。
そこは私のところよりも後で建てられた立派な水族館で、行くたびに羨ましい思いをしていたのであるが、古い小さな建物にしがみついていつ建て替えの時が来るのか希望のない我が加茂水族館をしり目にもう壊されて生まれ変わるらしい。
・この古い小さな水族館を建て替えることができるとは思ってもいなかったものだ。
やはり東北の片田舎にある民間の水族館と違い、県立ともなればやること考えることは全く違うものだと感心させられた。「どんな内容になるもんです?」という質問に「1000トンほどの大型の水槽を備えて、サンゴ礁の水槽や色とりどりの熱帯の海水魚なども展示します」「県の魚に指定された海水魚も展示します」・・・「んだばそこの特徴になるメインの展示は何なもんです?」
すると「シロクマが展示されます、これが呼び物です」と答えたのである。それを聞いたとたんに私の口から飛び出したのは「方向を間違えてくれて良かった」という自分でも予期しない失礼な言葉だった。
思わず本音が出てしまった。出たからにはもう取り返しがきかなかった。「あなたのところも地方の水族館だからそこの色を強く出さないと客は来ないのではないか?」「今更シロクマではノー、だいじょうぶだがー?」
目の前の人のよさそうな男は私の言葉にいやな顔をした。自分でも感じてはいたことのようだったが同業に念を押されては内心穏やかではなくなったのだろう。役所の上の方からシロクマが出た以上はもう変えることが出来ないのだ・・・など懸命の言い訳をしていた。
水族館が少ない時代だったらそれでも通用しただろうが、協会に加盟している水族館だけでも小さな日本列島に70近く存在している。今や日本中に立派な水族館があふれていると言ってもいいような状態になっているのである。
オープンして2年は近郷近在からどっと新しくなった水族館を一目見ようと押しかけてくる。しかし3年目からはもう底を打つのだ。一度来た客は10年15年と来てくれない。それでは人口の少ない地方の水族館は成り立たない。
・こんな状況がいつまでも続くはずがないのである。
3年目から先は遠くからその地方を訪れた人が、行ってみたいと思うかどうかに掛かってくる。当然どなたもどこかで立派な水族館を何度か見ていると判断しなければならない。
いかに地方色を出すか、そしてほかにない特徴を持つかが今の水族館に求められた課題だったのであるが、その辺のことは現場に長くいた水族館職員なら心得ているのだが、お役人さんには全く分からないので平気でシロクマが登場してくるということになる。
・加茂水族館は「クラゲ」をメインにここまでやってきたのだ。
あのころここははまだ民間の古くなった小さな水族館だったから、どこかの誰かがお金を出してくれる訳でもなく自力経営の辛さに辛酸をなめていたころだった。思わず前述のような言葉が勝手に口から出てしまったという次第だ。
私の口から出た失礼な言葉を、今度は私が体験する羽目になろうとは神ならぬ我が身には知る由もなかったが、ついこの間そんなことが起きた。関東とだけ言っておくことにするが結構知られた水族館の館長が訪ねてきたことが有った。
同業であろうが無かろうがこのクラゲをメインにした水族館は気になる存在で、一度見てみたいという思いに駆られるようだ。レストランの一角で海を見ながらクラゲ展示の話に花を咲かせている中で「私は今年度で退職するのです」といったとき「それは良かったこれで加茂水族館が衰退する万歳」・・・そう言ったのだ。
私如きの進退が影響してクラゲ水族館が衰退するとは思われないが、聞いた一瞬ハートをゆすぶられた。そして言われた私は10数年前のあの男とのことを思いだした。
それにしてもこいつは思い切ったことを本人の前でよくぞ言ったものだ。思えば何処の館長も苦労の経営をしているのだろう。「嬉しそうににこにこしながら語る」あの言葉は、ついほとばしり出た本音だっただろう。完全に脱帽だ、やられました。