この頃続けて昔のばかなことを思い出しては書いてみた。すっかり忘れていても何かの拍子にスイッチが入ってありありと思い出す。これも年寄りになった何よりの証拠だろう。
バカ話が続いたところでついでと言っては何だがもう一つ続けてみることにする。
ところで加茂水族館は12年前から鶴岡市の所有になっているが、市の施設の一角に入ってからここまでの躍進は非常に大きいものがあった。例えば入館者の伸びだが11万6千人が27万1千人に伸びている。
市の難しい制度に従えば民間のようなスピーデイな仕事が出来なくなり、活力が失われて業績は落ちてゆく。そうならざるを得ないような仕組みになっていることは皆さんがご存じである。
ここは逆に大きく伸びたのだから不思議な話だ。なぜこうなったのかを一口で言えば「市の制度からはみ出した経営」をしてきたからと言える。館長である私の決裁権はわずか50万円までだった。まあ市の課長と同じ権限を与えられていたというわけだが、それを知らぬふりを決め込んで毎年1千万円2千万円とその年に稼いだ金を皆つぎ込んで、権限を大きくはみ出した改造工事を押し通してきた。
それを大目に見てくれたり、黙認してくれたりと陰に陽に応援してくれた市や公社の存在もあったから出来たのではあるが、結果を出すことのみに集中したと言えば聞こえがいいが、結構度胸のいる厄介な仕事であった。
館長の破れかぶれの経営はいったい何時ごろまで遡れば窺い知る事が出来るのか、今日はその一端を振り返ってみる。
もう47年も昔の事だからカビの生えるほども時間が過ぎてしまった。館長に就任したその年だったので弱冠27歳だったことになる。鶴岡市から民間に経営が移って記念に何か魅力ある施設を作ろうと、郷守社長以下幹部が相談して決定したのが「サルが島」を作る事だった。
新潟県の月岡市に猿ヶ島が有ってそれを見た者がいたからだった。水族館にサルだから何だか変なのだが、面白ければいいではないかという事になった。水族館は磯の岩場の上に立っていて裏には地続きで平坦な岩場が続いていた。ここに20m四方を3mの壁に囲まれたサルの放飼場を作れば丁度いい、よしここにしようとなった。
・昭和42年、完成した「サルが島」にサルを運びこむ
これが誠に面白かった。サルの群れは人間社会の縮図を見るようでいつまで眺めていても飽きない。たちまち人気の施設になった。これで終わればはみ出してはいないいい男で済んだのだが、2か月だったか3か月だったか過ぎたころに山形県の港湾事務所から課長の芳賀さんが訪ねてきた。
・サルが島で遊ぶサルたち
「館長さんあのサルが島が立っているところ、県から使用許可をもらっているのか?」と尋ねられた。「いや何もしていません。ここと繋がっているし平らだったから丁度いいと思って建てました。」このように返事をしたら、びっくりするようなことを言われた。
「猿ヶ島の手前に低いが防波堤があっただろう。あれより外は海なんだ、勝手に海の中に建物を作ることは許されない」と言われた。そういえば低いが確かに防波堤はあった。
・白い壁より手前、黒い屋根の部分とサルが島(現在のオタリアプール)はホントは海だった!?
他人の土地と言えばいいのか国の土地と言えばいいのか、とんでもない場所に猿ヶ島を作ってしまったことになる。芳賀さんとどんなやり取りをしたか確かなことは記憶にないが、私には「知らずにしてしまったのだ勘弁してくれ・・・」という他なかったと思う。
・指をさす排水路のあたりに「低い防波堤」があった。(今はろ過槽室の一部となっている)
芳賀さんはいい人だった。今更壊せとも言えなくて「仕方がない土地を貸してあげるから地代を払いなさい」と寛大な処置をしてくれた。
あれが最初の掟破りだったと思う。オープンした時からこの水族館は規模が小さかっただけではなく、誠にお粗末な内容だったから直したいところは山ほどもあった。
改築のたびに多かれ少なかれはみ出し工事は続いた。かなりきわどい工事もいくつか含めて5指に余る程はすぐに思い出せる。しかしあまり恥をさらすのも何だから書き連ねるのは多少のためらいが有る。聞きたい人はいつでも訪ねて来てもらいたい。コーヒーを前に海でも眺めながら語って聞かせよう。男は度胸だ、わはははははー・・・。