館長想い出語り「6万匹の岩魚を釣らされた」

もう20年も前のことになるが、年に60回も山に入り岩魚釣りに明け暮れていた事があった。あのころは週に1度の休みだったから、4月の解禁から9月末まで毎週山に入ったとしても20数回しかならない。

年に60回となると普通の勤め人には不可能な回数である。私の場合はどうしてそのような事が出来たのかというと、好きでやっていたのではなく、水族館と言うよりは会社の大事な仕事の一環としてやらされていたのである。

好きなことだから良いじゃ無いかと思うかもしれないが、これだって度を越せば苦労の種になる。毎月2度か3度東京からオーナーがやってきて、自分の経営するホテルに作った別荘に泊まり、3日~4日朝早くから夕方までイワナつりをして山遊び三昧の日々を過ごしていた。

そのお供と云う役割が私であった。庄内に滞在する間中私が陰の如く付き添い、釣りだけではなく関連会社を回るにしても、応援していた代議士のお宅を訪れるにも、東京に持ち帰る土産を買いに行くのも、とに角どこに行くにも私が運転するビッグホーンに乗って行動していた。

オーナーは唯の人ではなかった。15歳で風呂敷包み1つぶら下げて上野駅に降り立って以来、努力に努力を重ねてのし上がり、とうとう小さな鋼屋を東証一部上場の会社までに拡大した実力者だった。

力があって頭の回転がよく、度胸もあり仕事人の全てを備えた人だった。自信があったからだと思うが誰が何を言っても聞き入れない絵に書いたようなワンマンだった。

そのワンマン社長が年を取って振り返ったとき、趣味も無く仕事の他には自分を夢中にさせるものが一つもなかったようだ。

サケがふるさとに戻って産卵し、一生を終える如く社長も生まれ故郷に戻って子供の頃に遊んだ山や川が恋しくなったのは、ごく自然な流れだったと思う。

何時の間にか私が案内係となって、二人で岩魚釣りをするのが唯一の心の休みどころとなった。来るたびに庄内平野を取り囲む山々に分け入っては岩魚を釣った。

あのころ山は荒らされておらず、入る沢にはイワナがいっぱい泳いでいた。朝から釣って夕方にはいつも100匹以上のイワナが魚篭に入っていた。

東京でイワナを日に100匹も釣るといっても、誰も信じてはくれない。イワナという魚はあの頃すでに幻といわれていたので、車を置いて1時間沢を遡ってから、一日中竿を振ってもほんの数匹というのが相場だった。

「嘘でしょう、信じられません。」と云われるのが社長の自尊心をくすぐっていた。誰も信じられないぐらい釣っているので楽しくて仕方が無い。「そんな事云うなら一度いらっしゃい釣らせてあげますよ。」と、東京からいろんな人を連れてきた。

得意先の大事な人ばかりではない。いつも行くすし屋のオヤジさんだったり、有名なホテルオークラのコック長と支配人だったり、時々立ち寄るおまわりさんだったり、もう留まる所を知らないほど誰かれなく声をかけていた。

20数年間風邪を引いて寝ていようが、明日大事な会議があろうが人が訪ねて来ようが、全てを社長に合わせて、亡くなるその年まで楽しみの相手を務めた。

ワンマンだったあの人は誰しも近寄り難く、出来るなら離れて居たいというほど厳格だった。

商売人として徹底的に利益を追求したその人生で、たった一つ例外が(株)庄内観光公社の経営を引き受けた事だといわれた。 幾ら赤字が続いても周りの反対を押し切り、様々な形で援助の手を差し伸べて、事業を続けさせた。

厳格な社長の信条を変えて、例外を生ませる事になったのは、たった一つしかなかった「岩魚釣りという趣味」がそうさせたと思うのが一番分かりやすいだろう。

ワンマンオーナーは、生れ故郷に帰って好きな山に入って岩魚を釣るという楽しみがあったから、月に2度も3度も満光園に来たのであり、其れを最大の楽しみとしていた。

50数年間社長として先頭に立ち、突っ走ってきた仕事の第一線を離れたときに胸に去来したものは何だったろう。「まだまだ若いものには負けない。」「あの仕事ぶりは何だ。」「俺だったらあんな事はしないぞ。」悶々とする日々の思いを胸の奥底に呑み込んだ男の心の隙間を埋めてくれたのはたった一つ、生まれ故郷に帰りイワナ釣り三昧の日々を過ごすことだった。

その楽しみを自ら断つことは出来なかっただろう。あの頃の社長と同じ年代になった今その心境はよく分かる気がする。

大山鳴動して地域を巻き込んだ昭和42年「足達鶴岡市長の観光の市構想」は、湯野浜ゴルフ場の下にホテル一つだけが残って消えたが、その陰には悲喜こもごもの物語が存在する。

芸は身を助けるという諺があるが、趣味は会社を助けるといつも思いながらイワナ釣りに明け暮れていた。

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