あの男はいつの間にか館内にいた。クラゲを見に来たわけじゃないのだ、旧知の間柄だから館長に用があるなら入館料金を払うことなく「館長いるか―」と入ってくればそれでいいのだが、どこまでも律儀な人だ。800円の入場券を買って客として中にいた。
実はこの日もYBCさんのテレビ番組の収録で忙しかった。加藤さんと言う女性キャスターとクラゲの水槽前で話をしながら次から次へと、移動してはクラゲとの出会いは?と聞かれれば16年前の苦しかった頃を思い出しながら、「いや全くの偶然からです。」「あれはクラゲではないな、私を助けに来てくれた神様です」などと答えていた。
角を曲がった時だった。その男が目の前にふわりとあらわれて「館長さん」と声を掛けてきた。
細身の面長な「うりざね顔」は見覚えが有った。この人はもうお亡くなりになったとばかり思っていた。しかしやせ気味ではあったが顔には血の気がさして健康そうだし、言葉や歩き方もしっかりしている。
あの日土下座した面影はどこにもなかった。
「館長さんこの間ここに来てクラゲを見たら元気が出た。クラゲの癒し効果は大したものですのー、ガンも治ったような気がします」と晴れ晴れした顔で話してくれた。
・このクラゲに一体どれほどの癒しの力があるのだろうか・・・
この話にはもう少し前置きが有る。この方は「小型船舶の操縦免許」を取る際にお世話になった教習所の職員で、それがきっかけで知り合って、もう30年近い月日が流れていた・・・。
その後定年を迎え退職することになり、再就職のあっせんを依頼されて多少の口をきき上手く運んだことが有った。
こんな事はとっくに忘れていたのだが一昨年2010年の10月5日のことだった。ある会計事務所さんの依頼で「加茂水族館がクラゲに助けられて奇跡の復活をした話」などを講演した時に最前列にその方が陣取っていた。
終わって一人帰る途中に追いかけてきて、いきなりコンクリートの床に正座して頭を下げて「館長さんにお礼を言うのを忘れていた。私はがんに罹っていてもうすぐに死にます。館長さんにお礼を言わずに死んだら死にきれない。今日講演で来るのを知ってこうしてきました。」
「何言ってるんですか死ぬなんて、元気そうでないですか。」「大したお役にたてた訳でなし何もそこまでしなくても」と云っても本当にもう余命はいくらもないのです・・・と云って聞いてくれなかった。
そう思ってよく見るとやせ細って顔色も良くないし、体全体が生気を失っている。立っても歩いてもよろよろとしていた。人様に土下座をするのはよくよくのことだ。この男が本当にもうじき死ぬのが分かっているから出来ることだな・・・良くて3か月の命かと腹の中で解釈した。
そしてあれから2年と半年が過ぎて出来事も忘れていた今年の4月に、ふらりと訪ねてきたのである。あの時の話が本当ならこの男はとっくに極楽浄土にたどり着いているはずであった。
しかし目の前のやさ男は少しだけだが元気そうだった。「館長さん、あの時お話を聞いて元気が出ました。体の具合も良いようです・・・」と言ったのである。
いくら人気館長の語る波乱万丈の「クラゲで立ち直った話」でもそれはオーバーではないか・・・と思ったが、「まず元気になったなら何よりだ、えがったのー」と答えた。そしてクラゲの展示を案内したのである。
その男は感動してくれた。これまでクラゲに対して持っていたイメージとよほど違っていたようで、行く先々のクラゲ水槽で感嘆の声を挙げて喜んでくれた。
その日からまた2か月がたっていた。今日その男は「クラゲの癒しでガンから生還した」と言ったのである。その喜びを鶴岡市長あてに丁寧な言葉で葉書を書いた。その返事がこれだと見せてくれた。
クラゲが癒しの効果があるのは誰でも知っているが、まさか末期がんを治してくれるほどの力があるかと言うと少々疑いたくもなる。しかし死なない生き物として知られているベニクラゲやヤワラクラゲも居る。クラゲの世界はまだまだ解明されていない不思議だらけである。
・「不老不死」のベニクラゲ
ベニクラゲの「不老不死の力」があの男に憑依したとしたら、これはまんざら無い話でもないかも知れない。今日はいい出会いが有った。
・ベニクラゲを拝む“彼”。本当に力を分けてもらったのだろう・・・。