毎朝のガラス拭きの仕事も長くなった。入り口は西に面していて天気次第で海風をまともに受ける。潮しぶきが付着すれば簡単には綺麗にならない。そんな日は水をたっぷり吸わせたタオルで流して、又流して3度目辺りでやっと綺麗になる。
70歳を2~3年も過ぎているが、これも運動のつもりでしているので苦になることはない。誰かが気を利かせて先に拭いてしまっていることが有る。そんなときは「誰だ、私を運動不足にして若死にさせようとしている」とからかうと、手を出さなくなる。
健康に気は使う方だと思う。甲斐犬をお供にして毎日約5kmの散歩はしているが上半身を動かすことが無いのだ。これを思いついてもう20年以上になる。今日もいつものように海水魚の水槽を拭いて回った。
8号の水槽に毎日気になる魚がいる。この水槽はたったの10tしかないが水温が下げられていて、1mを超すイシナギや頭がボールのように飛び出したコブダイ、またホッケの群れなどに混じってサクラマスが入っている。これが気になる魚の正体である。
去年の6月だったと思う。18cmほどのヤマメを入れてから日に日に成長して行く姿を眺めては、どこまで成長するのかを楽しみにしてきた。成長のスピードは実に早い。えさを追うのはどの魚も敵わない速さが有る。
あれから1年と半年が過ぎた。産卵期が近づいた今ではオスは桜色に赤く染まり全長60cm、重さは3kgほどになった。
結露を拭いてガラス面に顔を近づけると、遠い昔が甦ってくるのである。子供のころにガラス箱や、水中メガネでのぞく向こうに銀色に白く光った川マスを見たときの興奮が再現される。だれにも話したことはないがこれが楽しみで毎日ガラスを拭いているようなものだ。
思い出も、もう遠い昔になったが昭和30年ごろの話である。夏休みになれば小学生は皆が近くの川に魚捕りに行って遊んだ。捕れる魚は鰍がほとんどを占めていた。
毎日同じところで鰍を取っているのに減った感じがしなかったので、それだけいたという事だろう。大勢が毎日わいわいがやがやとにぎやかに魚捕りに興じていたが、その中の誰かが1匹でもナマズを捕ればその者がその日のチャンピオンだった。
いわば毎日の魚とりの中で一番の獲物がナマズだったのである。中学になるとガラス箱を持つのを止めて、「ダンコメガネ」と呼んだ水中眼鏡をかけて、淵から淵へと渡り歩きながら潜ってはナマズとハヤの大きいのを取っていた。
マスは狙って捕れるほどはいなかったが、雨で増水した後とか、たまには宝くじにでも当たったように出会うことが有る。1匹でもマスを捕ればうわさが広がって行きまるで英雄にでもなったように子供たちに羨望のまなざしで見られたものだった。
サクラマスは60cm近い大きさが有ったので,ヤスで刺しても押さえつけて捕まえるだけの体力が無いと逃げられてしまう。私も小学5年ごろだったと思うが、垂れた葛のツルの下に隠れていたサクラマスを刺したことが有ったが、あっという間もなくヤスは跳ね飛ばされて逃げられてしまった。
もう62年も昔の事だが悔しかった思いと、桜色に染まったマスのよこ腹が「天然色カラー」で鮮明によみがえってくるから、逃げられたあの日の印象は強いものだったとおもう。
マスの隠れ場所は淵ごとに違っていた。土手に大きな穴が有れば深く潜っていってその中を覗いたし、柳の枝が水中に垂れ下がっていればかきわけて奥を探した。川が大きくカーブしたところには木工沈床で組まれた護岸が有った。
電信柱のような丸太で組んだ間に一抱えもある石を多数並べて詰めて組んだもので、洪水から河岸を守るためのものだった。今なら小型のテトラポットが置かれたりコンクリートで固められてしまう所だろうが、昔は自然にやさしい工法がとられていた。
殆んどの沈床は下の方の石が崩れて洞穴状になって鯉やナマズにウグイの大物など、まるで魚のアパートのようになってごちゃごちゃといた。しかし沈床の下は危険が潜んでいて潜るのに度胸が必要だった。
丸太に出ていた釘にパンツが引っかかって危うく死にそうになったとか噂が有ったし、天井のように組まれている石がいつ何時落ちて来るか分からず、危険な匂いがしたが魚がいると言う魅力には勝てなかった。
あのころ中学の1~2年にはなっていたと思うのだが、目の前に60cmもあるマスが居るとまるで1mもある巨大なキングサーモンのように見えた。手に持つヤスが急に貧弱に思えてこれで刺しても跳ね飛ばされるなー・・・と思ったものである。
鰓ぶたの所を刺して飛び掛かるようにしてマスを押さえつけた。この辺からはもう現実のものではなくなり、夢の中の出来事のような映画を見ているように意識が飛んでしまう。しかしマスがバタバタと暴れる感触が今でも腕に残っている。
はじめてマスを捕った時は嬉しさのあまり橋の上に上がって、マスを持つ手を高く上げて「ますしぇめだー、ますしぇめだー」と舞い踊った。腹の底から湧きあがるあの感動を今の子供たちにもさせてやりたいものだ。
マスが川を遡って来るのは大体田植えが済んで1番除草をする頃だった。農家が忙しい盛りだったが魚とりの好きな者は大きなガラス箱と、腕ほどもある太い木の柄の付いた「マス突きヤス」を持って川に出かけて行った。
学校から帰る頃にぶらぶらと柳の枝に2匹も3匹もマスをぶら下げて帰ってくる大人を時々見ては羨ましかった。
忙しい農作業の合間に捕ってくるマスは、早速焼いて食卓に上がった。食料の乏しかった昭和30年ごろの事だから、海から上がってくるマスは大変なご馳走だった。焼いて熱いうちに醤油をかけてダイコン下しを乗せてかぶりついた。
なぜかマスとヤマメには大根おろしがつきもので、これほどうまい魚は他にあるまいと思って食べた。
今日は9月の17日だ。ここのサクラマスもあとひと月の寿命という所か。密かな楽しみもまた次のヤマメの成長に取ってかわる。まずは健康第一ガラス拭きを続けよう。(写真は岡部夏雄氏より拝借した)