竿洗いの年だった


今年は海は勿論渓流も含めて殆ど釣りをした記憶がない。

この小さな水族館にノーベル賞を受賞された下村脩先生をお迎えしたり、身動きが出来ないほどお客様が来てくれた5月の連休が忙しかったり、寿命の短いクラゲの展示を心配したから出来なかったのでもない。

別に何かのために決心しての中止ではなく、気がついたらそうなっていたと云うだけの話である。

海のクロダイ釣りだけではない。一時は渓流釣りだけを取ってみても実に年に60回以上もやっていたのである。「かかあを質屋に入れても釣りをするぞ」とうそぶいていた自分からすると、釣りをやめるときが来るなんて考えられない出来事である。

年を取れば体力が落ちるがそうなればそうなったで身に合った釣り方だってある。港の岸壁に腰を下ろして昔作った「削り竿」で小物を釣ってもいい。

しなしなと曲がる「孟宗竹を削った竿」に10cmのクロコが掛かったって竿は見事に曲がる。竿尻を持った手には結構な感動がつたわってくる。何もクロダイの大物ばかりが釣りではないのだ。釣ってみれば小あじだってメダカだってそれなりの深い味がある。

実の所いまだに自分では釣りをやめたという感覚がないのだ。実際は行っていないが止めたという気がしていない。毎日チャンスを密かに狙っているような気がしている。

釣りをしたと云うほどの記憶ではないが、本当は2度だけあった。一度目は7月の初めだった。出勤はしてみたものの昨夜から降った結構強い雨が気になってしょうがなかった。

あの降りかただとかなりの増水をしたはずだ。今頃になれば雨を待って上流に向かうイワナが、一斉に隠れ家から出て動いたろう。場荒れしていた川が一変していい条件のはずだ。警戒心の強いイワナやヤマメも安心して濁り水の中で荒喰いしている。「餌は何でもいい。ミミズだって、ゴキブリだって流せば飛びついてくるだろう。」

久し振りに渓流釣りの夢が膨らんで抑えが効かなくなってきた。「午後からほんの2時間でいい、近くの沢に入ってみよう」密かに決心した。市営の施設の館長だというのにこんなことを本気でやってしまうところが70を過ぎても、子供のままだと言われる所以だろう。

釣り具はここの倉庫奥に人知れず置いてある。履くものから餌捕り用のタモ、迷彩色の帽子、ビク代わりに作った発泡スチロールの手ごろな箱まで、一式箱に収まっているからひょいと持てば足りる。

昼飯もそこそこに「昼から俺に2時間ほど休みをくれ、ちょっと用はある」と言い残して踏み出した。

水沢から石山を通って国道345号に出た。川沿いにしばらく行くと関根の辺りから川が見えてくる。やはり思った通りに増水の笹濁りだった。願っても無い水具合だ、これなら釣れるだろう。

新しい橋を渡って対岸に移り枝沢に入って川虫を採った。砂虫が50ほど捕れた。今日ならミミズでも釣れそうだがやはり少しでも効果が有る餌がいい。いざ川に来るといっぱい釣りたいという欲が先に出る。

坂ノ下の集落に車を止めた。このあたりは以前に何度も来た馴染みの沢で、石一つまで頭に入っている。

早く釣りがしたい、今年初めてとなると気がせいて仕方が無い。竿は5.4mに、増水を計算に入れて、仕掛けはちょっと長めの1.5mにした。錘は今日は渓流釣りにしては大きめに大の噛み潰しを1個つけた。

川沿いの人家の裏から竿を出してみた。対岸の護岸の下が深くなっていた、いつも釣れたところだった。砂虫を針に2匹付けて足を踏ん張り身を構えて流してみた。

頭の中から暑さも、クラゲも、客も、仕事も70歳の年のことも消えた。流れる仕掛けの小さな赤い目印に集中した。

竿は水平に保って糸は垂直に垂らす・・・これが岩魚釣りの極意だ。とかく素人は遠くに流したくて仕掛けが長い。それじゃー変化の多い渓流で自由自在な操作ができないのだ。今日は重めの錘のせいで急な流れの中でもコントロールが効く。
3つ目のポイントだった。大きな石の下側がゆっくりと渦を巻いてよどんでいた。沈めて流した糸が止まったと思ったら、送った仕掛けが流れに押されて目印まで沈んだ。

針掛かりか?それとも当たりか・・・。静かに竿を立てると細かな振動が伝わってくる。今日の初物が食いついたようだ。

この水具合なら一度食いついたらめったな事で離さない。一呼吸置いて竿を立てるとガツンと針掛りした。結構いい奴が掛かったようだ。竿が曲がったまま起きてこない。細いハエ(オイカワ)竿が引き回されている。

ハリスは1号だった。よもや切れはしないだろう。浮いてこない相手を思うように泳がせて、感触を楽しんだ。幾らイワナ釣りは引き抜くのが定石だと云われようと、ひき味を楽しまないで何が釣りだといいたい。そのために用意した細いハエ竿だった。

引かれるままに下手に回り川虫とり用のタモに納めた。遣り取りしているときに尺物と見えたが計れば28cmぐらいだろう。それに丸太のように太っている。この沢のイワナは味がいい。黙って食べたらヤマメと間違うくらいだ。

夏のつり用に作った特製の発泡スチロールのビクに納めた。

少し行くと右手が孟宗竹の藪になっている。この先にいいポイントがある。左手にある崖にぶち当たった流れが深い淵を作っていた。

ここのポイントは二つに分かれている。深くはないが頭の白泡の消えぎわと、中ほどの一番の深みから浅くなる下手にかけて旨くすればいいのが2つは釣れる。

身を低めて中ほどに仕掛けを沈めてみた。強い流れに押されながら目印を水中に入れて流していった。居ないのかなと思ったときに当たりがきた。

奴は流れに逆らうように上手に仕掛けを引き込んでゆく。これは大きい、「よし来た!」針も糸も丈夫なものだし・・・心配ない、ガツンと合わせをくれると濁りの中の深い所で手ごたえがある。重くて曲がった竿が起きない。これは結構いい奴だ。

散々走られて下手に回りやっと取り込んで一息ついた。慣れた目で目測するとこのイワナは35cmはある。あーやっぱり来て良かった。

何もかもが新鮮に見える。草薮の緑が光っている。さっきまで確かにあった肩の凝りがない。

心が爽やかだ。結構手間の掛かるクラゲの展示も心配が消えた。全てがうまく行きそうに思える。俺にはたまの釣りは無くっちゃーならない元気の元だな。

館長人情話

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