狸は朝まで雪が降った日に捕まえる その1


いまどき狸を捕まえるなどと言っても「何であんなものを・・・そこらへんに一杯居るじゃないか」といぶかしがられるかもしれないが、昔は毛皮を結構高い値で売り買いされていたし、肉も喜んで食べられていた時代もあったのである。

そんな高校時代の事を思い出して少し書いてみたくなった。昭和30年から33年までが私の高校時代だったから、もう50年以上60年に近い月日が流れたことになる。

私は不思議な縁で飯豊山の山懐にある「小さな高校」に入学できた。今は小国町に合併されたが当時は津川村と云って誠に小さな村だった。駅から8kmも奥に有ったがバスも無し足だけが頼りだった。

冬になれば4m近い雪が積もったし川添にところどころに集落が有るだけで、まさに平家の落ち武者が人里離れて住み着いたと言えばそんな感じもする寂しい所だった。

何でそんな所に高校なんか建てたのかと不思議に思うが、これがまた変わっている。津川村は国鉄の米坂線が開通する前には陸の孤島と云われ、日本一不便なところだと定評があった所だ。

だからこそ本当の教育が出来ると考えた校長が、家屋敷を売りはらって引越し、自宅がいつの間にか高校の校舎として使われて小人数の学校が出来上がっていた。とまあこんな事情が有る。


・キリスト教独立学園 – ぼろぼろで納屋と間違えられそうな校舎

40人に満たない全校生徒で、しかも授業料は県立と同じだったから成り立つはずが無いのだが、貧乏のどん底で四苦八苦しながら続けていた。そんなとこに入学したのである。

入学式の日に校長は「勉強をするな」と云った。本当は前おきに大学受験のための・・・と付いていたがそれは切り捨てた。これは有り難かった。何より嫌いな勉強から解放されたのである。

堂々と3年間授業以外の勉強は1度もしなかった。「嘘をつくな、たばこを吸うな、酒は飲むな」と約束させられた他には何も制約はなかった。落ちこぼれだった中学時代が砂をかむような日々で、今度は毎日が日曜日のような嬉しさだった。

冬になれば皆はスキーをしたが私は人と同じことが嫌いで、せっかく山奥に来たんだからと、鉄砲を撃ってはウサギや鳥を捕まえて食べていた。いつも腹が減っていたしまた楽しかったからだ。

高校生が鉄砲を撃つなど考えるまでもなく禁じられていたが、お巡りさんが居るわけでもなし、山の中だから猟期以外にだれが鉄砲を撃とうが、気にする人とていなかった。

知り合いの村のおやじさんに「鉄砲と弾を借してくれー」と言えば貸してくれた。そっと寮の部屋に隠しておいて、日曜日になるとウサギ撃ちに出かけた。

山の稜線に先回りして鉄砲を構えて下級生が追い上げるウサギを撃った。走って逃げる山ウサギをよく狙って撃ってもなかなか当たらない物だった。下手だったがそれ以上に鉄砲の口径が小さかったことも有ったろう。

魚屋も、勿論肉屋も無いし山の中でのご馳走は獣の肉しかない時代だった。どんな獲物も大喜びで歓迎された。

熊とか、むじな(アナグマ)、ヤマドリは別格の獲物でそう簡単に捕れるものではなく、めったに口に入ることは無かった。次の獲物は狸であった。これもそう簡単には捕れなかったが捕れれば近所のおやじ達が皆寄ってきて、どぶろくを飲みながらの大宴会になった。

今食べろと言われてもあの獣臭さはどうにも我慢が出来ないが、あのころはそんな思いをした記憶がない。白く厚い脂肪層が有って牛肉の様だと思って食べたものである。

いよいよ本題に入るが、タヌキの足跡はいたるところに付いていて、追いかければ寝ぐらにたどり着けそうに思うが、そうは行かない。深い雪の中を一晩で2里(8km)歩くと言われていた。

山の中をかんじきを履いて深雪を踏み固めながらとても8kmは歩けない。そこで頭を働かせ朝まで雪が降ってその後止んだ日に追いかければ、寝ぐらに帰る足跡だけが残っている。そのぐらいの距離だったら追いつけると考えた。(続く)

館長人情話

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